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達人伝説

達人伝説は38番まで見る事ができます。



1


嘉門タツオ。本名、鳥飼達夫。

 1959年(昭和34年)3月25日、大阪府茨木市民病院にて産声をあげる。 23時間という難産の末、3200gでこの世に出てくるが、母親の産道がなかなか開かなかった為、アタマが引っかかってちょうど七福神の福禄寿のような長いアタマで生まれたらしい。その姿を見た父方の祖母は口には出さないまでも「こりゃとんでもなく可愛そうな子が生まれてきた」と心の中で嘆いたそうな。父、慎一郎は(株)旭屋書店に勤務、当時30歳。母、敏子は27歳の専業主婦である。その後、長いアタマも徐々に普通になり、貧しいながらも鳥飼家の長男として、両親の愛情を100%受けて育ってゆく。2歳か3歳の時、祖母が結核で入院。母と共にお見舞に行こうとしている矢先、縁側から落下、右眉毛のところを切り、血だらけになる。3歳の時、母初めての里帰りにて母方の両親の住む山口県徳山市へ行く。おじいちゃんに「電気マガ、こーてーなー。」とねだり、「電気釜」を買ってもらって母親を喜ばす。大阪に帰ろうとしていた矢先、はしゃいで転んで祖母の鏡台の角で右鼻を切り、血だらけになる。その傷は今でも残っている。そんなこと以外は、実に素直な子で、「あっち行っとけ。」と言われると呼ばれるまではずっと「あっち行ってる」ような子だったそうな。なんせ長男だったので、毎週のように「枚方パーク(遊園地)」へ連れていってもらっていたように思う。そんなおとなしい子が、何故歌を歌ったり、人前で表現したりするような人間になったのか、読み進むうちにおわかりいただけるのではないかと思う。

つづく

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2

 あっち行っとけ」と言われたら行ったままというそんな幼少の頃。幼稚園へ通うようになっても、一人遊びが好きで内向的な子供だった。友達を作ろうとしない達夫少年を心配して友達が出来るきっかけになればと、母は大阪・茨木市の家の近くにあった「ヤマハ音楽教室」に彼を通わせることにした。もし、近所に劇団があったら劇団に通わせていたのかもしれない。チャイドル「鳥飼達夫」君が誕生していたら今頃タットタンは、どんな人生を歩いていたのか・・・と余計なことを想像するのはやめて、話を進めることにする。その「ヤマハ音楽教室」は、一階に“びっくりチャンポン”というラーメン屋さんがあったがその音楽教室と共に今はもうないそうである。その音楽教室で鳥のバッヂを胸に付け、小鳥がねお窓でね・・なんて合唱したり、オルガンも習った。発表会でエレクトーンなんかも演奏したりした。バイエルとかソナチネとかソナタとかを弾いているうちに、今度は家でオルガンばかり弾いている子供になって、母の狙いとは裏腹にますます一人の世界に没頭していってしまった。うーむ、子育てとは深いモノである。そんなワケで音楽教室はすぐ辞めることになったらしい。

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3

 入学した大阪・茨木市の中条小学校。小学1、2年の頃は、まだおとなしい少年だった。そして、2年生のクラスのお楽しみ会で、自ら漫才の台本を書き、大ウケした。それが初めて人前で笑いをとった記憶である。たしかその年、今度は学芸会で「イワンのバカ」の主役を務めたりもした。こうして3年生くらいから達夫少年は教室で笑いをとったり、発言したりとだんだん活発になってゆく。小学校3年の時の担任の先生、「吉原先生」との出会いが大きかったとタットタン自身も振り返る。愛媛大学を卒業して、初めての赴任が達夫少年のクラスだった吉原先生は、とても個性派で例えば、小学校の低学年の国語の教科書といえばまだ平仮名が多くて、漢字といっても画数の少ないものがたまに混じっているくらいなのに、国語の授業でクラス全員に国語辞典を持たせて、教科書の平仮名で書いてあるもので漢字に変換できるものは、全部漢字を調べて書き込ませる。そしてそれをテストに出したり、算数ではまだ教科書には出てこないXを使った方程式を教えてみたり、鶴亀算なんてのも教えていた。

 実にユニークな先生で、図工の時間には絵の具以外のものを使って絵を描くというコンテストをしたりした。クラスのみんなは花や葉の汁を使ったりしていた。達夫少年は、絵の具が使えないというテーマのもと、何を思いついたかというと、マヨネーズ・醤油・ケチャップ・パン粉を家から持ってきて画用紙に絵を描いた。教室の中で達夫少年の周りは様々な匂いが混じってクサかった。結果、そのコンテストではクラスで3位になった。体育が得意な生徒には体育が、図工が得意な生徒には図工が伸びるようにと吉原先生は思いながら日々授業をしていたのだと思う。

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4

 達夫少年は国語が得意だった。テストがひとりひとりに返される時、先生に「鳥飼!」と呼ばれ、「はいっ!」と席を立ち前に出ていくと、「今回国語95点。トップだったな。」と言われ、先生に誉められることがうれしくて、ますます国語を勉強したりした。夏休みの宿題では、読書感想文に力を入れ、13冊分も書いた。(なぜかキューリー夫人とかエジソンとかライト兄弟、野口英世など偉人伝ものが多かった。)結局、それ以降高校を卒業するまで、ずっと国語の成績は良かった。現在のタットタンの作品作りにも言葉遊びだったり、当時の国語好きが反映されていると思われる節が随所に見受けられる。その吉原先生がいつも黒板に書く言葉があった。小学3年の子供達には難しいと思うのだが、「みんな覚えておけよ。」と先生が書いたその言葉は、『念願は人格を決定す。継続は力なり。』だった。当時の達夫少年は黒板のその言葉を見ても難しいとは思わなかった。けれど、今になって振り返ると身を持って理解することが出来ると言う。人はこうなりたいとかああなりたいという念願をより具体的に持つことで、目標や夢を自分の中にイメージし、それに近づこうと努力することが出来る。思わなければ始まらない。そしてそれを続けて行くことがパワーとなり、ひとつのジャンルを築きあげたりすることが可能となる。今取材などで「何か座右の銘がありますか?」と尋ねられると、タットタンはこの『念願は〜』を挙げる。吉原先生との出会いは、そののち嘉門達夫として歩み始める達夫少年にとって、たいへん大きな意味を持つものだったのである。ちなみに、現在吉原先生は一介の役僧として広島県の音戸町のお寺にいらっしゃるそうである。

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5

 そして小学校高学年の頃、初恋も経験した。確か名前は「松本さん」という学級委員タイプのきれいな子だった。けれど、松本さんには好きな男の子がいた。やっぱり小学生といえば、クラスでも優等生タイプだったり、走るのが早かったりという男の子がモテる頃である。例えて言うと、達夫少年の小学3、4年の頃の同級生にいた「金森くん」みたいな男の子。(って誰も知らんがなっ。)彼は勉強も出来たし、走るのも早かった。達夫少年は特に体育が得意ということでもなかったし、走るのもどちらかといえば遅いほうだった。勉強も国語は得意だったが、女の子の注目を集めるほどの「花輪君」指数は無かった。これではいかん、なんとか注目を惹かなければと、達夫少年は思った。そこで子供ながらに考えて彼がとった作戦は「好きな女の子を笑わせる」だった。給食の時間、彼女が牛乳を飲んでいたら、目の前に言って「プー。」と言って牛乳ブーをさせてみたり、駄洒落を言ってみたり、なんとか気を惹こうとあれこれやってみた。彼女もよく笑っていたという。人を笑わせるということに目覚めたのは、もしかしたらこの頃かも知れない。

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6

 そして達夫少年にとって衝撃的なイベントが日本に、それも地元にやってきた。1970年に行われた大阪万国博覧会'70である。達夫少年は当時小学6年生。生まれ育った大阪・茨木市の隣町、吹田市というところで行われた。達夫少年の家からも自転車で30分で行くことが出来た。(って自転車で30分は結構しんどいと思う。単位が車で何分、電車で何分ではなく自転車でというところが小学生らしい。実はバスで10分だった。)千里丘陵という甲子園球場が何十個も入るという広大な土地にその万博会場が作られた。日本は高度成長期、1964年の東京オリンピックのあとにやってきた世界的なイベントに町はもちろん活気づいた。各駅停車しか止まらなかった茨木の駅に快速電車が止まるようになった。何もなかった駅前はバスターミナルに生まれ変わり、世界各国から人々がやってくるようになった。町のいたるところに開幕まであと○○日という垂れ幕が張り出された。

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7

 いよいよ開幕の日を迎えた。当時の最先端の技術が終結された博覧会の目の前にあった。天井全体がスクリーンになっているみどり館、月の石の展示で人気のアメリカ館、ソユーズなどのロケットが展示されたソ連館、日立マクセル館はエスカレーターに乗ると飛行機のシュミレーション操縦が出来るコーナーに着いたりした。今でこそ各地にあるが「動く歩道」も初めてのものだった。展望レストランがぐるぐる回ったりもした。達夫少年の家には次から次へと親戚縁者が訪ずれた。皆、万博へ行くために各地からやってきて、泊まっていくのである。こんな叔父さんおったんかいな?という人まで次々やってきた。そんな中ワコールリッカーミシン館というのがあった。このパビリオンのテーマが「愛」。パビリオン内で結婚式が行われたりもした。円形スクリーンのコーナーがあって、テーマの「愛」に沿って性の神秘という内容に映像も上映されていた。達夫少年はそこで初めて、写真や本では見ることの出来ない揺れる乳房というものを目にした。小学6年、性的なこともわからなかった達夫少年は、自分の身体に起きる「変化」にこの時気付くことになる。その「変化」を不安に感じたりして、友達と話をしたら彼も実はそうだったと聞いて、ホッとしたりした。甘酸っぱい思い出、万博はいろんなことを達夫少年に教えてくれたのである。

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8
 学校で流行ったのが、万国の各パビリオンのバッヂ集め。入場者にもれなくもらえるというバッヂよりも、コンパニオンのおねえさんしか持っていないバッヂとかその日しか配られない限定バッヂとかVIP用のバッヂとかを一生懸命集めた。電気通信館はコンパニオンの人しかバッヂを持っていなかった。何日も何日も通い詰めてバッヂちょうだいとねだった。遂に8日目、熱意に負けてそのコンパニオンのおねえさんから「もう、仕方ないわねぇ。」という言葉ともにバッヂを手にしたりした。さらに達夫少年は考えた。こうして足繁く通うのも時間がかかる。各パビリオン宛に手紙を送ることにした。「僕はバッヂを集めています。あなたのパビリオンのバッヂが欲しいので是非送って下さい。返信用の封筒を同封しますので、ぜひぜひお願いします。」と書いて送った。するといくつかのバッヂが送られてきた。電気館のパビリオンからは「お手紙をありがとう。君のご希望のバッヂ、もう今は配っていないのですが、2つだけ特別に送ります。ひとつは友達にもであげてください。」という返事が届いた。(タットンはこの手紙を今でもとってあるそうだ。)達夫少年はこうして手にした珍しいバッヂを一つは自分のコレクションに、同封されたもうひとつのバッヂは友達のバッヂ五つと交換したりした。こうして結果、21回行ってバッヂ68個を集めた達夫少年は、学校で3位だった。

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9

 タットンタンはこの万博を振り返り語る。突然、身近にやってきた雑多な文化の終結、万博。あまりにも急激に現れて、純粋無垢だった少年達はそんな刺激的な体験をしてしまったが為に、その印象は人生の中でも強烈だった。嘉門達夫は言う。各パビリオンごとにテーマがあり、このパビリオンではどんなことをやっているんかいなと思いを馳せたあの頃。いまあふれるほどの情報の中、どの映画が面白いとか、どの本が面白い、どの芝居が面白い、どの展覧会が面白いなど、いろんなところで博覧会のように様々なことが行われていて、流行も次から次へと移り変わり、そのひとつひとつを覗きたくなったり、首を突っ込んでみたり、チェックしなければ気が済まないという現在のタットタンの性格は、1970年のこの万博で培われたものだったと…。

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10

 達夫少年が初めてラジオを聴いたのも小学6年のことだった。ラジオを買ってもらってからというもの、夜になると布団の中で毎夜毎夜深夜放送を聴いていた。ラジオ好きは中学生になっても変わらず、今度は聴いているだけでは飽き足らず、番組にハガキを出したりするようになった。当時のラジオの大スターといえば「笑福亭仁鶴」さん。例えて言えば、その人気たるや、時代は異なるにせよ、のちに訪れるMANZAIブームをわかりやすく持ち出すと、その中から生まれた人気者の人達が束になってかかったとしても、仁鶴さん一人で劇場を満員にしたそのパワーにはかなわないくらいの人気だったのである。そして、次々とラジオからスターが出て来た頃でもあった。魚屋のおっさん、赤とんぼの唄と旋風を巻き起こした「あのねのね」もこの頃、頭角をあらわした人達である。翌日学校に行けば、前の晩のラジオの話になるといった具合。ラジオの世界は勢いがあふれていた。そして、せっせとハガキを書く達夫少年。番組での採用率も高くて、3枚に1枚は読まれていた。毎晩ワクワクしてラジオの前にいた。ハガキが読まれたオンエアから一夜明けると、みんなラジオが好きで聴いていたので、「オー、昨日お前、ハガキ読まれとったやろぉ。」と大騒ぎ。別のクラスからもラジオでハガキが読まれた“鳥飼”君の顔を見るために人が押し寄せた。番組のノベルティグッズ(番組や局で独自に作っているグッズ)も、バッグやらボールペンやらキーホルダーやらステッカーやノートやら全部持っていた。運動が得意なわけでもなく、勉強がすこぶる出来たというわけでもない達夫少年は自分が輝いていられる場所を見つけたような気がした。そして、この頃からラジオでしゃべったりする人になりたいなぁと、漠然とではあるけれども、少しずつ考えはじめていた達夫少年だったのである。

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11

 深夜放送ではその頃、フォークシンガーの人もパーソナリティをしていたことが多かった。吉田拓郎さん、泉谷しげるさん、あのねのねもそうだった。ばんばひろふみさん、谷村新司さんも人気DJだった。そんな人達の影響をも多大に受け、ギターが弾けたらカッコイイという印象も手伝って、中学2年の時、親戚のおばちゃんのところからクラシックギターをもらってきたりした。最初に引いた曲は「瀬戸の花嫁」。それもコードを弾くのではなく、弦を1本1本はじいてメロディをなぞっていただけだったのではあるが…。それでも友達は「うぉー、すげぇ!」と驚嘆。楽しくなってきた達夫少年は、本を買って来てコード譜を見ながら曲を弾こうとするのだが、どうもコードというやつが難しい。マイナーとかセブンスとかややこしい。苦労してコードを楽譜どおりに弾くことに時間を費やすよりも、知っているまたは弾くことが出来るコードを使って友達とオリジナル曲を作ることに熱中したりした。もう気分はフォークシンガーである。(もっともこの時に基礎をもっとやっていればと、後年思うことになるとは達夫少年自身、まだ知る由もなかったのである。)カセットテープレコーダーを目の前に置いて…おっと、余談ではあるが、今でこそ当たり前の電化製品であるラジカセは当時はまだなく、このカセットテープレコーダーが現在のオーディオブームの発端と言える。当時はこのカセットテープレコーダーが一家にやって来ると大騒ぎ。初めて聞く自分自身の声に皆が驚くのである。再生できると言う事自体が、驚くべき文明の進歩と家族は代わるがわる声を録音しては聞いて感心したり、笑ったりしていた。

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12

 のちにこのカセットテープレコーダーにラジオが合体されたもの、「ラジカセ」が誕生する。現在は、CDとカセットとラジオ、さらにMD…などがついていたりするけれど、当時はこの「ラジカセ」、実に画期的なものだった。それまではラジオはラジオ、カセットプレイヤーはカセットプレイヤーと単体だったものを某電器メーカーが合体させたのである。日本の住宅事情からよりコンパクトにということだったのか、合理的にということだったのか知らないが、ヒット商品となったひの「ラジカセ」に続き、それはもういろんな合体商品が発売された。例えば、ラジオとカセットプレイヤーとテレビを合体させた「ラテカセ」、ラジオとカメラが合体した「ラジカメ」(どういう時につかうのだろうか??)、「ラジソー」…こせれはラジオと掃除機ではなく、ラジオと双眼鏡が合体した商品。野球観戦などに便利だった。「ケンカメ」顕微鏡とカメラ。なんでもくっついた時代だったが、そろばんと電卓という商品は、そろばんで計算したあと電卓で検算出来るというのがウリだった。そりや、はじめから電卓使うわな。ま、そんな話はここまでとして話を元に戻すことにしよう。達夫少年はそのカセットテープレコーダーを使ってオリジナル曲を録音していた。録音編集機能も今の機器ほどなかったので、フェイドイン(音がだんだん大きくなって始まる)やフェイドアウト(音がだんだん小さくなって終る)は、自分でギターを弾きながらプレイヤーに近づいたり離れたりしてろくおんしていたのだった。せっかく叙情的にフェイドアウトで終ろうとプレイヤーから少しずつ離れて、さぁ録音も終るかという時に、何も知らない母がバッとふすまを開けて、「達夫、ごはんやで!」と言いに来て、録音が台無しということもあった。ぼそぼそと夜中録音していたら、犬の遠吠えが録音されていたこともあった。初めて作った達夫少年のオリジナル曲は「小さなすみれの物語」という曲だった。ますます楽しくなって来た達夫少年は、あることを思いついた。

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 友達の中沢君とオリジナル曲を録音してアルバム・カセットを作った。ちゃんとインデックスを付けて、SIDE/A、SIDE/Bと書いて曲名・作詞・作曲といういわゆるクレジットも入れた。写真も街の3分間写真で撮ったものをつけて、さらにジャケットは中沢君と家の屋根に上って写真撮影をして作った。RECORDING AT TATSUO-STUDIOとまで入れた。学校に行って友達に「俺達、レコーディングしてん。(達人伝説その12のような録音でも達夫少年達にとってはレコーディングであったのだ。)聴いてな。」とカセットを渡し、あくる日その友達に「どぉやった?」と尋ねると「まだ聴いてない。」とのつれない返事にがっくりした。「何でやねん!今日は聴いてや。」と言って、また翌日その友達をつかまえて感想を尋ねる。「どぉやった?」「よかったで。」との返事に「よかっただけじゃなくて、どの曲がどうよかったとか、どの歌詞に泣かされたとか、何かないんかい!?」と聴けば聴いたで友達にあれこれ批評を求めるのだった。ラジオを聞いたり、ギターを弾いたりしていた達夫少年は、そのかたわら運動部にも所属していた。小学校の頃は剣道を少しかじった。(本人は、かじったまでもしていないので、なめたと言っている。)中学に入ってテニス部に入部。その頃の先輩や後輩と関係、特訓なども楽しい思い出となって残っている。ちょうど身体も多くなる年齢だし、現在ライブツアーやレコーディングで体力というのもアーティストにとって重要なポイントだが、この頃に運動していたことが、いま活かされているなと思うこともあるという。もともと運動系ではかった達夫少年。実は幼少時代、彼を運動というものから遠ざける出来事があった達夫少年の父は、無類の野球好き。父自身も高校球児であった。高度成長期NIPPONの父らしく、男の子が生まれたら夢はキャッチボールをすることでもあった。いよいよ達夫少年がそんな年頃になった頃、父は彼をキャッチボールに誘った。最初は幸せな父と子の休日の風景よろしくおだやかなキャッチボールだったらしい。が、父は実践を踏んでいた。そして世は「巨人の星」が流行ってもいた。だんだん父の投げる球が難しくなる。落球する達夫少年に「なんでこんな球が取れないんだ!!」と父はゲキを飛ばす。まさしく星一徹なのである。ひぇ〜と達夫少年はおののき、以後野球はやるまいと思ったとのこと。父の気持ち、子知らずであった。そろそろ高校への進学を考える時期になっていた。達夫少年は大阪府立春日丘高校を受験することに決めた。進学校である。ちょっと頑張らなければ合格ラインに達しないかもしれないと言われた。しかし、どうしてもその高校に行きたかった。なぜなら、春日丘高校の文化祭が地元の高校では一番活気があって、オモシロイものだったからという理由である。その文化祭をどうしても自分でやりたいと思っていた達夫少年は、成績をメキメキ上げて、遂に合格をする。

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 そして、高校に入学してから剣道部に入部した。剣道部は新設されたクラブだったので、運動部の部室が一列になって並んでいる中にはなく、なぜか園芸部のとなりにあった。そして、思春期の達夫少年にファーストキスを経験する時が訪れた。それはその剣道部の部室で迎えることになったのである。高校2年生の時、彼女は剣道部のマネージャーを務める女の子だった。季節は夏、部室の中は汗の匂いが立ちこめていた。部室には2人きり。そっと彼女の肩を抱くけれど、なかなか踏み切れない。20分ぐらいドキドキするままで何も出来なかった。焦れてる彼女にこう言われた。「キスすんのやろ?私、目ぇ閉じてこうして上向いてるから早よして。」男の子はいざとなるとタイミングが取れないモノもので、女の子のほうが積極的だったりする年頃なのである。こうしてファーストキスも経験した達夫少年。彼女とデートもした。初めて2人で観に行った映画が「エマニエル夫人」。なんでかなと思うが、当時観たかった映画だからという単純な理由だと思う。映画の帰り道に喫茶店に行った。これも一度入ってみたかった「同伴喫茶」というやつだった。やがて、半年後。彼女との別れの時がやってきた。なぜそうなったのかはよく覚えていない。でも、達夫少年から言い出した話だったと記憶している。喫茶店で2人向い合せに座っている。しばらくの時間が過ぎた。交わす言葉も少なくなった時、店内に流れて来た曲が「エマニエル夫人のテーマ」だった。2人で観に行った映画。いろんなことが走馬灯のように思い浮かんだ。楽しかったこと、互いの心の中に残っている景色や思い出。彼女も達夫少年もいつしか泣いていた。「エマニエル夫人のテーマ」で涙する高校生も珍しかっただろうと今思うと懐かしいと言う。どこかでこの曲を耳にするとその頃のことが思い出される。音楽の力というものは素晴らしいものなのだと身をもって体験した達夫少年だったのである。

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15

 達夫少年が通った高校は、大阪府立春日丘高校という進学校と言われる高校で、卒業生の中には有名人も多数いる。作家の筒井康隆さん、「神田川」を作詞した喜多条忠さん、マッキ−こと槙原敬之さん。そしてゼンジー北京さんもそうである。他にも名の知られるたくさんの先輩がいる。制服はなく、私服の学校だった。先輩が制服廃止運動をしてい卒業していったあと、いよいよ私服にというところで達夫少年たちの代が入学したのである。そして高校2年の時、中学からオリジナル曲を作り続けていた達夫少年は、唄の世界に入りたいとぼんやり考えてはいたものの、まさか唄では生活していけないだろうと思っていたし、ラジオでしゃべる楽しい人への憧れもますます強くなる一方だった。けれど、その入り口がわからない。(今ほどオーディションやコンテスト等がたくさんあった頃でもないし、情報というものも待っていれば入手出来るというものではなかった。探さなければ手にすることが出来なかった頃なのである。)落語家の人達がラジオで流暢に、快活にしゃべっている。日に日に憧れはつのるばかり。笑福亭仁鶴師匠は“どんなんかなー”とか言いながら、グイグイとリスナーの心を引っぱって行く。もう達夫少年はラジオの世界に魅せられていた。“笑福亭”という名前が惨然と輝いて見えた。仁鶴師匠のもとには多くのお弟子さんがすでにいると聞いた。達夫少年は、深夜放送でやはり人気絶頂の笑福亭鶴光師匠に弟子入りしようと考えはじめていた。

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 友達は大学へ行く。彼らは学生生活がまだ続く。けれど、大学に進学せずに落語家の世界へ入ろうとしている僕には、あとこの高校生活の1年半のしかない。卒業したら内弟子やと思った達夫少年は、それからというもの思い出づくりに励んだ。文化祭では、自分達で8ミリ映画を作った。その映画では脚本・監督をつとめた。短編をいくつかつなげたものだった。・・・好きな女の子が橋の上に立っている。自転車に乗って来た男の子。その男の子は女の子に気をとられてハンドル操作を誤り、川に落ちてしまう。と、橋の上の女の子は待ち合わせしていた別の男の子に、いま男の子が自転車ごと川に落ちたと告げる橋の欄干にぶら下がっている男の子は、その彼にかろうじてつかまっている手を踏まれて、再び川に落ちてしまう。そして川の中を自転車に乗って去って行く。この作品は「自転車川をゆく」である。「馬鹿丁寧な男」というタイトルがついた作品は、ひとりの男が(椿井君が主役を演じた。椿井履物店の椿井君、元気だろうか?)駅のホームに立っている。電車が入って来ると、その男は電車に深くお辞儀をし、靴を脱ぎ、電車に乗る。電車が発車した後にはホームに靴だけが残されている。そして、今度は電車がホームに入って来る。映像は靴のアップから。と、靴の前の扉が開き、男は電車から降りて一歩踏み出したところに靴があり、そのまま靴を履いて去って行く。撮影秘話として、靴を脱いで電車に乗る時は、1テイクで撮影出来たが、反対に降りてくるシーンは扉と靴の位置がなかなか合わず、椿井君は1日10回以上隣駅とを往復しての撮影だったのである。

 

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 体育祭。もう高校も3年生になっていた。高校最後の体育祭、友達と応援団を結成した。応援合戦は当時流行っていた漫画「花の応援団」に影響され、友達は長ランを着て(進学校でもあったため、長ランを着ている友達は校内にはいなかったので、隣の高校から借りて来た。)三三七拍子〜ッ!!と叫んでいる。達夫少年はその間、校庭置かれた[?]と書かれた大きな段ボールに30分ほど隠れていた。そして応援団のみんながひとしきり応援合戦をしたあと、団員がその段ボールをかかえて、朝礼台まで運んで行く。すると、ロンパールームのテーマ曲とともにその段ボールの蓋が開き、シルクハットにモーニングを着た達夫少年が飛び出すという、趣向を凝らした演出もした。運動会小咄〜ッと言いながら校庭を走り回った達夫少年。こうして彼は日々思い出づくりの中にいたのである。高校を卒業したら内弟子3年間ということがすでに決まっていた。弟子生活のきまりとして、酒は付き合いもあるかろうということで許されてはいたが、煙草・ギャンブル・女は禁じられることになっていた。ということは、女性との初体験も18、19、20歳と禁じられるワケで、何とか初体験を経験してから内弟子に入らなければと思っていた。けれど、当時の高校生、お金もなくそういう店に行く資金力もなかった。が、根性たくましい達夫少年。みんなは勉強で忙しいから、僕が体験してきて、その体験談をみんなに伝えるから1000円ずつチョーダイと25人からカンパを集め、遂にその方向の店へと向かうこととなる。達夫少年の脳裏には、店の中に貼ってあったテントウ虫のシールのことが妙に印象に残っているという。

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 いよいよ卒業式が近づいてくる。最後の思い出づくりに彼は卒業式実行委員会で委員長をつとめ、答辞を読むことになった。けれど、型にはまった答辞が多いと思った達夫少年は、ディスクジョッキー形式の答辞にしようと心をはやらせた。卒業生全員にアンケート用紙を配り、修学旅行の思い出、体育祭・文化祭の思い出、高校生活の中で楽しかったこと等々書いてもらって、何百枚と回収した。そのアンケート用紙を当日持って壇上に上がりますと先生に話したら、それは駄目だと叱られた。卒業式というのは厳粛な儀式、セレモニーであるとたしなめられ、和紙に答辞の言葉を書いて読み上げるようにしなさいと言われた。達夫少年は和紙に先生方ありがとうございますなどと書いて、答辞の言葉として提出した。けれど、当日は密かにアンケート用紙を持ち込み、当初の計画通りディスクジョッキー形式を決行すべく、着々と準備を進めていた。卒業式の衣装も既に弟子入りしていたので、羽織に紋付・袴と決めていた。雪駄を履いて、扇子と手ぬぐいも用意した。卒業式の日がやって来た。「卒業生代表、答辞。鳥飼達夫。」と呼ばれ、壇上へ上がっていく。愛想を振りまきながら、扇子を手に第一声、「エー、答辞でございましてぇ、卒業式小ばなしぃ〜そのいちぃ〜。生徒/あのぉ先生、僕どうしても神戸大学へ行きたいんですけど、どうすればいいでしょうか?先生/そりゃ、阪急電車で六甲の駅降りたらええで。」場内大爆笑。「それでは、僕は卒業式に革命を起こそうと思っているので、皆さんの声がストレートに伝わるヤツをアンケートでご紹介しましょう。エー、まずはこの方。“高校生活で思い出に残っていること”…ストリップに行ったこと、ってええ加減にしなさぁい。」またまた場内大爆笑。そんなこんなとやっていて、笑わせるだけではいけない。最後、締めるところはグッと締めなければと、いよいよ終盤にさしかかろうとしていたとき、あることが起きたのである。

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 会場の後ろの方から生物の先生が立ち上がって、「こらーっ、お前の答辞はふざけ過ぎだ!今すぐそこから降りろ−!」と怒鳴った。いままで大爆笑だった場内はシーンと水を打ったように静まり返った。けれど、達夫少年は間違ったことをしているという気持ちはもちろんなかったし、ふざけているワケでも無かったので、「僕のやっていることは間違ってるか?!なあ、間違ってるか???」と壇上から問いかけた。が、進学校でもあり、卒業式でもあり、シーンとした会場から誰一人としてその先生に反論しようとする生徒はいなかった。達夫少年は気丈に信念を貫き、最後の締めの言葉を読み切って「卒業生代表、鳥飼達夫!」と胸をはり、その壇上を下りた。会場からは満場の拍手。それが、彼らの答えだったと思う。卒業生の父兄からは会場を出る時に「君の答辞は良かったよ。」と握手を求められたりもした。後日、後輩が模造紙2枚に先生に対しての抗議文を掲示板に張り出したり、新聞の「声」の欄に「生徒の心を傷つける先生の発言」と投書する生徒もいた。すると数日後、その新聞の欄に隣の町の学校の先生から「君達は甘え過ぎです。」という文書が返答として掲載されたりもした。このことはしばらく、いや、今も語り継がれているという。同窓会でも必ず話題に出る出来事だったのである。

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20

 落語家を目指して弟子入りしたのは高校2年の時。当時、ラジオの深夜放送でも飛ぶ鳥を落とす勢いの笑福亭鶴光師匠に弟子入りをした。弟子入りのきっかけは直訴。師匠のテレビの公開録画やラジオの収録スケジュールを調べて、「弟子にして下さい!」とこの一言を言うために出掛けていくのだが、なにせ達夫少年にとって憧れの世界の人、なかなか声が掛けられない。何度も局の楽屋口に通っては、幾たびも目の前を師匠が通り過ぎて行くのだが、弟子の「で」の字が声にならない。「今度こそは…」と意を決するが、師匠の姿を見送り、「あ〜行ってもぉたぁー」と落胆するということが繰り返された。ついにそんな楽屋口通いも5回目くらいになった日、当時大阪・千里のセルシーというところで「鶴光のテレビテレビ」という番組の公開録画が行なわれた。今日は間違い無く師匠はこの場所にいるという確信のもと、達夫少年は友達の高倉君(現在、イベント制作の仕事に就いている。)と、お寺の息子である炭窯(スミガマ)君とともに、今日こそはこのチャンスを逃すまいとバイクで師匠を追い掛けるという作戦を練る。ミニトレ50に炭窯君が、スーパーカブ65にハンドルを握る高倉君、後ろにヘルメットをかぶった達夫少年が乗り、師匠を出口で待ち受ける。遂にセルシーの駐車場から鶴光師匠が乗った車が出て来た。「よし!追い掛けろー!」大阪の御堂筋をずーっと走り、着いたのが当時大阪の南森町にあった読売テレビ。局の前に横付けになった師匠の車。達夫少年はバイクを駆け降り、ダーッと走り寄り、師匠の目の前まで突進した。いきなり「弟子にして下さいっ!!」と、勢いで叫んだ。と、師匠は「ほー、そぉーかー。いくつや?」と聞く。「16です。」と答えた。「16かぁ。親はどないゆーてんねん?」とまた聞く。「まぁ、親はイイとゆーてます。」と答えた。「そぉーかー。じゃ、一回親連れといでぇ。」と電話番号を書いたメモをくれた。そして、後日達夫少年は母親とともに鶴光師匠の自宅を訪れる。

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 当時、笑福亭鶴光師匠は27歳。この日は家にいると言われたある日曜日、母とともに師匠の自宅を訪れた。周りの人から必ず言われるのが「落語の世界は厳しいから辞めた方がいい」とか「10年は飯食えんと思え」ということだったが、コレだ!と思ったら突き進むしか考えられなかった16歳の達夫少年の耳にそんな言葉はよもや入ってはこなかった。遂に師匠の家にまで来た。「お願いします!」と頭を下げる達夫少年に師匠は言った。「高校生やろ?!とりあえず学校だけは卒業しといたほうがええから、それまでは通いでおいで。卒業してから内弟子になったらええがな。」というわけで達夫少年の入門が決まった。この時、当時21歳で一緒に弟子入りした笑福亭学光(がっこう)さんという兄弟子がいる。学光さんは徳島で銀行員として働いていたところを辞めて弟子入りしてきた人だった。現在も鶴光師匠の門下で落語を伝承している。師匠の家からの帰り道、行きはただの高校生だったが、帰りは今度の土日から通いでの弟子生活に入る落語家の卵として、母親と歩いていた。期待に胸ふくらむ達夫少年に母はぽつりとこう言った。「息子が一人、事故で死んだと思わなしゃーないな。」

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 母に「頑張るからな!」と言い、弟子入りを決めた達夫少年。土曜日、日曜日、祝日や夏休みなど、学校が休みの時に師匠の家に通っていたが、なにせ落語家の家だけに宴会が多い。しょっちゅうお客さんが来ては宴会が行なわれていた。そのたびに「何か芸やれー。」と言われた。16歳の入門したての弟子である。これという芸もまだ持ち合わせてはいない。が、ノリの悪い奴と思われてはならない。タバコはイカン、博打はイカン、女もイカンと言われていたが、時効ということであえて書くと、酒については“付き合い”で飲まされることもあった。飲めと言われれば、拒否は出来ない。ある土曜日、この日も多くのお客さんが来て、飲めや歌えの大騒ぎ。そんな中、飲めー、飲めーと勧められたのがホワイトリカー。梅酒などを作る時に入れるアルコール度の強い、きっつい焼酎である。(普通、そのまま飲むものではないと思うが…。)鼻先に持っていったら、注射前の消毒の匂いさえする。達夫少年はこの時思った。「弟子入りしたんや。なんとかこの場を盛り上げなイカン。」エーイ!駆け付け3杯や!と一気に喉に流し込んだ。アルコールに免疫のない少年の体内を、ホワイトリカーは容赦なく駆け巡り、途端に足は立たなくなった。が、「何かやれ−!」とはやし立てる声に奮い立ち、とにかく笑いをとらなければと、なんとパンツを脱いだ。場内、爆笑の渦。さらに盛り上げようと、全裸のまま場内を走り回った。ますます爆笑。何を思ったか、達夫少年は表に飛び出し、師匠のバイクにまたがり(もちろん素っ裸!)、町内を一周し、戻って来たと思ったら、客が乗って来た車のボンネットに駆け上がり、「オレは売れるぞーっ!!」嬌声をあげ…このあたりの記憶は本人はないらしいが…とにかく大暴れだったらしい。後日知らされたところによると、あまりの叫び声に近所の人が喧嘩だと思って警察に通報し、パトカー2台と自転車の巡査が2名駆け付けたという。その時、達夫少年はイビキをかいて大の字で寝ていたそうな。大物になる兆しなのか、単なるお調子者なのか、この時点ではまだ誰もわからなかったのである。笑福亭笑光(しょうこう)、彼の名を知る人は、まだ皆無に等しい頃だった。

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 意識的に卒業までの思い出づくり励んでいた達夫少年も、高校を卒業し、遂に本格的な内弟子生活がスタートした。内弟子というのはなかなか苛酷な生活なのである。落語の勉強は当然のこと、その上主婦業全般をこなさなければならない。師匠は帰りが明け方5時になることもしばしばだった。当然、弟子は師匠の帰りを迎えなければならないのので、起きて待っているのだ。寝るのもその後となる。けれど、弟子は朝7時には起床。掃除、洗濯、買い物の荷物持ち、ありとあらゆることをしなければならない。時には師匠のやっているスナックでバーテンとして手伝う日もあった。当時師匠の家には幼稚園へ通う2人のお子さんがいた。まず7時に起きて、子供を起こして、幼稚園の制服に着替えさせて、ハムエッグか何かを作ってパン焼いて牛乳飲ませて朝御飯を食べさせて、お弁当作りも内弟子の仕事のひとつ。赤いウインナーをタコちゃんの形にして焼いたり、りんごをウサギのようにして飾り付けることも達夫少年はせっせとやっていた。師匠の奥さんは夜、スナックを切り盛りしていたので、このような朝の仕事は変りにやらなければならなかったのである。そんなある日、兄弟子の学光さんがモヒカン刈りというヘアスタイルになってきた。達夫少年はそれを見て「逆モヒカン」にした。つまり額から後ろへ縦に髪を剃って周りの毛は残した。師匠の鞄を持って仕事場へついて行く時は帽子をかぶって行くのだが、到着してディレクターさんに挨拶をする時に「おはようございますっ!」と帽子を取ると、髪の毛の真ん中がズルリと剃られている「逆モヒカン」なので、みんながびっくりするという、単にツカミだけの「芸」だった。日々、家事に追われながらも、目立たなければ…と達夫少年はあれこれ考えていたのである。

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 相変わらず師匠の家では宴会が催されていた。いつまでたっても裸で走り回るだけでは脳が無いと、花見の宴の前に考えた。「笑光仮面」と書いたピンクのマントをひるがえし、自転車で登場する。頭にはターバンを巻いて、サングラスをかけて花見の席に飛び込む。「どぉーもぉー!!」とまずは声のデカさで場を盛り上げ、BGMに合わせてマントを脱ぎ、ターバンをとり、サングラスから真ん丸い素通しの眼鏡に取り替えて、鼻の下にチョビひげを付けて、マントの下には白いシャツとステテコと腹巻きを着ておいて(いわば植木等さんの“およびでないスタイル”、またはドリフターズの“カトちゃんぺっスタイル”に)変身し、ヘアスタイルはすでに刈り上げられていたのでその場は大爆笑。そして、シャツとステテコと腹巻きを脱ぐと、上半身の地肌にウルトラマンの赤と銀の柄が描いてあった。下半身はブルマをはいていた。ブルマを脱ぐと紫のカラータイツをはいていた。こうして少しずつ脱いでいく度に笑いは起こり、ついに紫のカラータイツを脱ぐと、七色のふんどしに「笑光」と刺繍されていた。そのふんどしを風になびかせながら宴の場を走り回り、最後は素っ裸になって笑いは最高潮に達するという、弟子入りして間もない少年が一生懸命に考えた15分間のショーだったのである。ちなみにそのマントや七色ふんどしは「息子を一人、事故で亡くしたと思わなしゃーないなぁ」と呟いた母のお手製だったそうだ。そしてふんどしの見事なまでの七色とは、そんな母のろうけつ染による鮮やかなものだったという。

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 すぐ裸になって走り回る達夫少年だったが、裸になることが出来れば他に怖いものがないという心理もあった。頑張るぞという意気込みでもあった。が、内弟子生活にストレスも溜まっていったのは事実だった。師匠がカラスは白いと言ったら「白い」と答えなければならない封建的な社会の中にいた。師匠の子供に八つ当たりなんぞしようものなら、後日その話は師匠の耳に入り、こっぴどく叱られる。愚痴など御法度なのだ。では、どこで発散しようかと達夫少年は考えた。当時、鶴光師匠はサルを飼っていた。このサル小屋の掃除も達夫少年がしなければならなかった。名は「サン吉」といった。東南アジア生まれの彼は、達夫少年にも増して世の中をアッと言わせたかったのか、新聞にも載ったことがある。サン吉の小屋は玄関にあったため、師匠は寒かろうと近くに石油ストーブを置いて暖がとれるようにしてあったのだが、ある日サン吉君は手を伸ばし、ストーブを倒してしまい、小火になるという事件を起こしてしまったのである。その火事が新聞に事件として掲載された新聞を持っている人がいたらよく見てほしい。記事の中で騒動の主人公として写真におさまるサン吉君。そしてその彼を抱いているのは、家人としての達夫少年だった。サン吉君の好物はバナナだった。達夫少年は何とか日頃の鬱憤を晴らそうとイタズラを思い付いた。バナナを少しずつ千切って投げてやると、すぐに飛びついて口にするサン吉君。ある日、達夫少年はサン吉君にバナナを千切っては投げを3回くり返した。4切れ目を投げた。が、そのバナナは割り箸で穴をあけ、そこに練り辛子を入れてあったのだ。何も知らないサン吉君はパクッと食べてしまった。「ギャーーーーッ!!」と大騒ぎ。・・・ひねくれていた達夫少年だった。また、どこからかサルにオナニーを教えるとずーっとやっていると聞いた達夫少年は、これは実験してみなイカンということで、サン吉君に教えた。まだ子供のサルだったが、気持ちがいいということは覚えたようで、恍惚の表情を浮かべたりしていた。さて、次はどうするかなぁとサン吉君の様子を見ていると、小屋の前を達夫少年が通るたびにすり寄って来るようになったそうである。可哀想なことをしたなぁと、今になってサン吉君を愛おしく思うのだった。

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 19歳になって達夫少年、つまり笑福亭笑光に初めてのレギュラー番組が与えられた。それがMBS毎日放送ラジオ「ヤングタウン」なのだった。が、相変わらず芸はないので、コーナーといえば“涙の内弟子日記(内弟子のしいたげられた?生活をギターにのせて語ってみたり)”とかね“笑光の笑いを求めて3千里(身体を張って何にでも挑戦するというコーナーで、例えばパンツの中に何個の氷を入れることが出来るか…80個という記録を達成。脚のスネにガムテープを貼って一気にはがしたら何本のスネ毛が抜けるか…200本。当時、MBSラジオのスタジオがあった吹田市千里の丘の上で外灯の下、パンツ一枚で1時間立っていて何ケ所蚊に食われるか…24ケ所。など…)”だった。とにかくがむしゃらに毎回挑戦していた。元気もいいし、なかなかおもしろいということで、噺家内では期待のホープという噂も事実あったのだった。だが、この頃から少しずつ達夫少年の心の中に自我が目覚め始めていた。自分の意志で落語の弟子に入ったのだから、炊事洗濯などは当然だと思っていたが、ラジオのレギュラーをはじめることになってから、外の世界を知ってしまったのだった。コンサートにも行きたい、いろんな人のアルバムも聴いてみたい。ラジオの仕事をしているのにこのままでいいのだろうか、本当に来たかったのはここだったのではないか。しかし、笑光として落語の修行も積まなくてはならない日々。心の葛藤は次第に態度にも出始め、師匠に「出て行けー!」と叱られては飛び出し、謝っては戻るということを繰り返していた。。

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 またもや師匠に叱られ、実家に戻っていた達夫少年、そんな時、「ヤングタウン」で新しいコーナーが始まった。そのコーナーは「出前の笑光」というキャッチフレーズで始まった。月曜から土曜のヤングタウンの番組オープニングは、いつもスタジオからほど近いところにあった茨木の実家で聞いていた達夫少年。例えばある日のオープニングで鶴瓶さんが「おーい、笑光、聞いてるかぁ?たこ焼きとお好み焼きとカップラーメン、買ぉて来い〜。」と言えば、達夫少年は実家を飛び出して、当時コンビニなどはない頃である。それを夜中にどうにか探し出して買い込み、息をきらせてスタジオへ持っていくというものだった。果して、笑光は無事リクエストに応えてスタジオに駆け込んで来ることが出来るか…これは、スリルがある、なかなかの人気コーナーとなっていった。某夜、鶴瓶さんが盲腸で入院して、明石家さんまさんがピンチヒッターのDJ、ゲストにはサザンオールスターズの桑田佳祐さんという日があった。いつものように、二人のリクエストに無事応えてスタジオに辿り着いた達夫少年。間に合ったという安堵感でいっぱいだったらしいが、実はこれが桑田さんとのちに“嘉門達夫”と命名されることとなる達夫少年の初めての出会いだったのである。

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 さて、師匠の家に行かなくなって時間を持て余していた達夫少年。コンサートにも行きたかったし、自分の感性も磨かなくてはと思っていた。が、自分は何が好きで何が嫌いなのか、その価値判断さえもよくわからなかった。19歳、20歳でラジオに出ていても自分の意見というものがなかなか言えないことにもどかしさを感じ、これはイカンと年間200本の映画を観たという。朝から晩まで映画館にいた。オールナイトなどで安く多くの映画が観れるように調べたりもした。コンサートも大ホールからライブハウスなどとにかく出掛けた。そして感想なんかをノートに記したそうである。(今もそのノートはとってある。)しかし、そんな生活も長くは続かなかった。あまりに師匠の家との距離を時間的にも気持ち的にもあけすぎてしまったのだった。師匠の堪忍袋の尾がブチッと切れた。「そんなに来たくなかったら、もう来んでもええわい!」と、遂に破門を言い渡されてしまったのである。転機というにはあまりにも若かった。しかし、「何でもしますから弟子にしてください!」と頼み込んで弟子入りしたのに、落語を学ばず好奇心にまかせて好きなことをやっていのだから、言われても当然だった。せっかく師匠が入れてくれたレギュラー番組「ヤングタウン」からも降板せざるを得なかった。人気コーナーもあっただけに、これからやというところでの破門である。実は、その秋から新番組も決定していたのだ。だが、残してやりたいと思う人がいても残してやれない状況だった。番組に関わる多くの人々に迷惑をかけた。「レギュラーもやってるし、これでこの先、なんとかなるやろ。」と多少天狗になっていた自分を振り返り、反省しても割れた皿は元に戻らなかった。達夫少年、いや、笑福亭笑光はやっとたどり着いた憧れの場所から、自ら去っていくしかなかったのである。

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 いろんな人のもとへ相談に行った。「16歳から21歳まで信じてきた落語の道を破門になってしまいました。どうしたらいいのでしょう??」ある日訪ねた鶴瓶さんはひと言こう言った。「旅に出え。」と…。16歳から21歳、内弟子だったその間、狭い落語界という世界しか見てきてないのだから、旅に出てもっと広い世の中を見てくるのがいいと助言してくれたのである。仕事もないし、1年くらい大阪を離れてほとぼりを冷まそうという思いもあり、達夫少年は21歳の秋、旅立つことを決心する。行き先は、落ち込んだ自分をより冷たい風と日本海の海で落ち込ませ、客観的に見てみようと、秋から冬への能登半島に決めた。(いちいち劇的な情景ら自らを置こうとする意図が見えないでもないが。ちなみに“秋から冬への能登半島”というのはある演歌の曲の1フレーズである。)大阪駅のホームには友達の放送作家なんかも見送りに来てくれた。急行電車に乗って(特急列車でないところがいちいち…である。)、能登半島から佐渡島へ渡るのだが、半島の先端に位置する「のしろ」という入り江の町で一泊する。そこには、部屋や風呂やトイレも明かりはランプしかないという“ランプの宿”というところがあり、その灯りを見つめながら人生を考えたりしていた。昼間は人っ子ひとりいなくて、誰もいない砂浜にたたずんで夕日が沈んでいくのをながめていた。ふと、足下の砂の上に彼は文字を書いた。「笑光」…そのかたわらに火のついた煙草をスッと差し、線香のように煙がたなびくのを見ていた。日本海の波が書いた文字と煙草を流し、消し去った。「あぁ、これで笑光という名もなくなってしまった。これからどうしたらいいのだろう。」初めて訪れた見知らぬ土地で悲しみにうちひしがれながら、呆然と途方に暮れる達夫だった。(と言いながら、この時、砂に書いたその文字はしっかり写真に収められているのだった…。)

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 そして、佐渡島から一旦東京へと向かった。が、しかし、東京で知り合いといったら「ヤングタウン」で一緒に番組をやらせてもらっていたあのねのねの原田伸郎さんくらいしかいなかった。その伸郎さんが毎週火曜日に東京タワーの下の芝公園スタジオで、当時東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「ヤンヤン歌うスタジオ」の収録をやっているということを思い出し、突然ではあるが訪ねて行った。すると、原田さんの相棒である清水國明さんが「泊まるところ、あるんか?」と聞いてくれたことから、清水さんの自宅に居候させてもらうことになった。清水さんは夜な夜な「これからどうするねん、おまえ。」と話を聞いてくれた。そして、「笑光、おまえはボールや。ボールいうのんは、水の中に深く沈んで行けば行くほど、そこで手を離した時に浮力で上に上がっていけるやろ。いま、おまえはそのボールのごとく沈んでいるところなんや。」とか、「笑光、おまえ“シュハリ”っちゅー言葉、知ってるか?“守る”“破る”“離れる”で“守破離”と書くんや。中国の有名な言葉や?まずは弟子入りすると師匠の芸を守る。そして破って離れて行く。おまえはちょうど離れていくところやねん。」などと、たくさんの訓辞を教えてくれた。そして、ちょうどあのねのねが新宿のABC(アシベ)というライブハウスでライブをやるからゲストで出ろという話になって、ミュージカル仕立てのライブだったので、どんな役ですかと尋ねたら、「大阪の噺家をクビになって流れて来た男っちゅー役や。」という。まるでそのままの役で、そのまま出たのだが、何ヶ月ぶりかに立ったステージであった。ステージに出る前の緊張感、出ている間の高揚感、出番を終えた後の安堵感。これらをあらためて体感させてもらった。それによって達夫の胸中にみなきせるものがあった。噺家という形ではないかも知れないけれど、人前で何かを表現するということ、やはりそれを目指そう。この場所にもう一度帰って来るぞという決意がこの夜、確固たるものになったのだった。

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 その夜の打上げで達夫は宣言した。「僕はこれからまた、旅に出ます。上野発の夜行列車に乗って北へ向かいます。」清水さんは「また帰って来いよ。」と言ってくれた。いってらっしゃいじゃなく、帰って来いよという言葉が、もう戻るところがないと思っていた達夫の胸にジーンと響いた。ラジオのレギュラーを降ろされたことで迷惑もかけたのに伸郎さんは笑顔を添えて餞別をくれた。こんな僕に…と心から有り難かった。店を出て、そんなことを考えながら六本木の駅に向かって歩いていると、後ろから当時清水さんの奥さんだった今は亡きクーコさんが「おーい、おーい。」と追い掛けて来た。やっと達夫に追いついたところでクーコさんは言った。「コレ、清水のオッサンから。餞別な!」…思わず涙が出た。が、涙を人に見られてはいけないとおもむろにサングラスをかけて、六本木の地下鉄の駅の階段を降りて行ったのである。そしてその後、上野発の夜行列車に乗り、北海道へ。利尻島から礼文島をヒッチハイクでまわった。当時の思い出やエピソードは日記に残しているという。ヒッチハイクで乗せてくれたトラックのドライバーさんとの会話やこれからどうすればいいのだろうという悶々とした気持ちも綴ってあるらしい。(なぜか一人旅なのにヒッチハイクをしている自分自身をやはりこの時、写真におさめたりしている。)40日ほどして大阪に戻り、残る冬をどのようにして過ごそうかと考えていた時、アルバイト情報誌でスキー場のアルバイト募集の記事を目にする。信州は北志賀竜王高原「ホワイト・イン・北志賀」というペンションホテルでアルバイトをすることになったのである。

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 21歳の冬、12月10日。まだ雪もそんなに積もってはいなかった。これからスキー客を待ち受ける準備をする頃から、アルバイトに入った。スキーの経験もなかったが、冬はスキー場という短絡的な思いつきでもあった。いよいよシーズンを迎えると、朝は7時から食器を並べたり、納豆をこねたり、宿泊客が出掛けたら部屋の掃除に入る。クリスマスなんかはツインの部屋にカップルが泊まっていたのに、片方のベッドはぐしゃぐしゃで、もう片方のベッドはサラッとしていたりして。ま、そんなところを掃除するのである。女子大生の合宿なんかだと、部屋に入った途端、目に飛び込んで来るのはヒモにズラッと吊るされた洗濯されたパンツ。ま、そんなところを掃除するのである。他にアルバイトは何人かいた。横浜市大のスキー部の福田っちゅーヤツがいた。こいつがどのクラスにでもいるようなボーッとしたヤツで、夕食の仕込みで厨房で誰もが慌ただしくしている時に、これまたボーッとしているので、「福田、風呂の湯加減見て来てくれや。」と頼んだ。厨房ではキャベツの千切りやら、タマネギのみじん切りやらバタバタしているのに、湯加減を見に行ったきり福田が戻って来ない。「あいつ、何してんだぁ?!ちょっと誰か見て来てー。」と言われ、達夫が様子を見に行くと、福田君、何を考えてるのか湯舟につかって「湯加減見てたんだよー。」さて、そんな忙しい時の厨房ではただでさえみんな殺気立っている。チーフが叫ぶ。「冷蔵庫の右の上の段からキャベツ、出して!」「左の下の奥からピーマン出して!」食器のガチャガチャいう音や炒めているジャーッという音、勢いよく出る水の音やらで騒然とした忙しい中に響くチーフの叫び声。さらに右だ上だ左だ下だ、間違えるとイライラも募る。第一、まどろっこしい。そこで達夫はひとつのアイデアを出す。「冷蔵庫の扉に名前をつけましょう。」ウマとカエル、サルとネコ、という名前がそれぞれに付いた。それからというものは「サルから人参!」「ウマからトマト!」厨房が笑いに包まれたことは言うまでもない。 

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 スキー場でアルバイトを始めた達夫。元噺家の弟子がバイトをしているという噂は誰ともなく伝わり、夜になるとパーティなんかがあって、呼び出されては「何かやってよー。」と声がかかる。けれど、達夫に出来るのは既に破門になったというのに、師匠に教えてもらった落語や小咄(こばなし)しか出来ない。そんな自分自身に愕然とする。「何やってんねんっ!!」なにかオリジナリティのあることをしなければ…と焦る達夫が思い出したのが、中学高校の頃、ギターで曲を作っていたことだった。笑いの勉強も5年した。唄で笑いをとるという形が作れるかも知れない!!アルバイトの合間に曲を作った。大阪出身だった達夫は、信州でこうしてアルバイトをしていて東京からスキー場にやって来る女の子達の言葉が耳に引っ掛かっていた。まだ“ブリッ子”という言葉もポピュラーではない頃だったが、当時一番ウケていたのは「カワイ子ブリッ子今日も行く」という曲だった。女の子の台詞にツッコミを入れるというものだ。他には「スルメの意地」という曲もあった。(この曲は後日『ミスター味っ子』というアニメのサントラ盤に収録されることとなる。)ある日、毎日放送の堀江さんから「今度公開放送が奥志賀であるから、一日バイト休みもらって遊びに来いや。」と連絡をもらった。オリジナルを何曲か出来たところだったので、その日ギターを持って出掛け、ちょっと歌ったりした。堀江さんはそれをテープに録音し、大阪に持ち帰ったのである。堀江さんはなんと、そのテープを番組でながしてくれたのだ。このことに手ごたえを感じた達夫は「歌手になろう!」と決意する。そして、スキーシーズンを信州で精一杯アルバイトと曲づくりに精を出し過ごし、春とともに大阪へ“夢”を土産にして帰るのだった。

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 迷惑や心配をかけた人達に「歌手になります!」と決意を言いに行った達夫だったが、みな唖然としていた。再び鶴瓶さんの元を訪れたとき、こう言われ気が付いた。「歌手になろうという気持ちはわかった。けどな、破門になってまだ半年や。寒い時に北へ行って先が見えたんなら、今度は南へ行け〜。」との助言にうなづき、そのまま達夫は与論島へ向かう。当時の夏の与論島は原宿の竹下通りのようなにぎわいだったという。与論島では貝細工のバッチやアクセサリーを作って売る、お土産屋さんのアルバイトに就いた。夜はライブハウスで唄わせてもらったりしていた。そんな南の島で達夫は恋をする。彼女は休みを利用して東京から来たOLだった。2泊3日の短いバカンスの間に意気投合し、会話をしていても楽しかった。彼女が東京に帰ったあと2ヶ月間、電話と手紙での交際だった。夏の思い出はいまだ島にいる達夫はなかなか冷めず、会えない彼女への思いが募るばかり。けれどその彼女は都会へ帰り、いつもの生活に戻るとだんだんその思い出が色褪せてきてしまう。そんな彼女の気持ちを感じ取った達夫は、このバイトが終わったら東京の新橋の駅前で待ち合わせしようと約束をする。なんとか彼女の心をつなぎ止めておきたくて、島からの電話代に1日2千円使った。そしてなんと、アルバイトの日給は2千円だったのだ。9月になった。夏の島のバイトは終わりである。達夫は新橋に向かった。彼女と一緒にいたのは島での2日間だけ。プラトニックな恋である。思い焦がれる気持ちが今にも張り裂けそうだった。2ヶ月振りの再会。けれど達夫はそのあと、大阪に戻る身だった。戻ったところでどうなるかさえわからない将来も今も不安定な22才のただの日焼けした男に過ぎなかった。これ以上、彼女の気持ちを自分につなぎ止めておく術はなかったのである。そして、この恋はその後花を咲かせることもなく夏とともに終わりを告げた。

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 気がつくと破門を言い渡されてから1年が経っていた。「歌手になります!」その気持ちは変わっていなかった。再度鶴瓶さんの元を訪ねた。と、「日本は北から南と旅したワケや。ちょうどレギュラー番組もやってないことやし、自由な身やねんから海外でも行ったらどうや?!」という。それもありかな?!とニューヨークへ行くべく健気にアルバイトを始めることにした。英会話の教材販売をやったみた。1本の契約も取れないうちに2週間で辞めた。ホストクラブの面接にも行った。落ちた。電気工事の配線というバイトもやった。そんな頃、毎日放送の堀江さんが信州の公開放送で録音してくれていた達夫のライブのカセットテープをある人に聞かせていた堀江さんがアミューズというプロダクションの大里会長と一緒に車に乗ったとき、カーステレオでそのテープを流しながら走っていたのだ。アミューズにはサザンオールスターズなどが所属していた。大里氏は「これ、誰?」と堀江さんに聞いた。「ほら、ヤングタウンで鶴瓶さんが盲腸で休んだ時、さんまさんが代わりをやっていて、桑田さんがその回にゲストで来たでしょ?そのあとの宴会でハイテンションで盛り上げていた、アイツですわ。」その夜、達夫は大里会長、堀江さんと会うこととなった。

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 「東京に来たらどうだ?!」と言われ、本当はその場で“はい!”と返事をしたかったが、ヤングタウンでお世話になったプロデューサーの渡辺氏に翌日相談しに行くことにした。「東京に今すぐ行って売れるかも知れないが、落ちるのも早いものだぞ。大阪でもう少し力をつけてからにしたらどうだ?!」との言葉に、それもそうだと納得し、大里氏にそう返事をした。それならと、ちょうどアミューズは大阪事務所を開いたところで、有線放送のプロモーター(宣伝マン)を探していたから、バイトをしようと思っているならそのアルバイトをしないかと言われ、本名の鳥飼達夫で名刺も作って新たなバイトをスタートさせることにした。サザンオールスターズはその頃、「チャコの海岸物語」というシングルをリリースしたばかり。早速、達夫はそのシングルを持ってプロモーターとして有線放送を飛び回った。ここでも目立たなくてはと考えた彼は、松屋町(大阪の玩具問屋街)でくじ引き付きの駄菓子を買って、有線放送所に「当てモンの兄ちゃんが来たでぇ〜!」と入って行くのである。結構な人気者だったらしい。そして夜は夜で、サザンオールスターズが関西に来た時には、打ち上げを盛り上げるべく、張り切っていたのだった。

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 ほどなくして、桑田佳祐さんがサザンオールスターズとは別に“嘉門雄三バンド”という洋楽のコピーバンドをソロ活動として始めた。そして、その前座で出ないかと言われ、大阪・梅田のバラードというライブハウス(現在はもうない。)の満員のお客さんの前で唄うこととなった。スキー場でのアルバイト時代に作った「カワイ子ブリっ子今日も行く」や「エレジー」といった曲を唄い、爆笑をとった。この時、本名の“鳥飼達夫”という名前そのままでステージに立っていたが、どーも“鳥飼”っちゅー名前が堅いなぁと桑田さんが言い出した。達夫はかねてから思っていた。「誰かにステージとかで使う名前を付けてもらいたいなぁ。所ジョージさんは宇崎竜童さんが付けた名前やったしなー。ミュージシャンに名前付けてもらったらウレシイなぁ。桑田さん!?…でも何の接点もないもんぁ・・・」。。。が!今、目の前でその桑田さんが鳥飼じゃ堅いとゆーてる!!飛んで火に入る桑田佳祐とはこのこっちゃ!!(失礼!)と意を決して達夫は言った。「じゃ、名前付けてくださいっっ!!」桑田さんは「うん、わかった。次来るまでに考えとく。」。。。やった−!!

 そして後日。桑田さんと再会したときに「名前、考えてもらえましたか?」と聞くと、「ん?なんのこと?!」忘れられていた。と、すぐさま桑田さんは「あぁ!!名前ねっ!!考えたよぉ。」「ホントですか!?」(何だろう??どんなんだろう??)と期待して次の言葉を待った。「うん、カメリアダイアモンド!!どぉ??」…「あの〜、50歳や60歳になったとき、ちょっとツライですぅ。」と言うと、「じゃあ、嘉門!“嘉門雄三”はもう使わないから、この名前をあげるよ!!」なんとありがたい!!でも、そのままもらっては桑田さんの“嘉門雄三”と、鳥飼達夫の“嘉門雄三”とややこしくなっては申し訳ない。ということで、苗字の“嘉門”をいただいて、ここに桑田佳祐氏命名、『嘉門達夫』が誕生したのである。

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 いくら桑田佳祐さんにもらったからといって、“嘉門達夫”の名前ですぐワンマンライブが出来たわけではなかった。関西で友達や知り合いのライブがあれば、その間の15分や20分、時間をもらって唄っていた。何度かそんなことをしていたが、いよいよワンマンライブをおこなうことになった。場所は大阪・梅田のいまはなき「バラード」というライブハウス。当時のバラードは前述の桑田佳祐さんの嘉門雄三バンドをはじめ、杏里、スターダストレビュー、近田春夫など蒼々たるアーティストが出演していた。最初はとにかく中学高校の友達に電話をしまくり、来てくれ来てくれと連呼した。ライブ告知のチラシは手作り。そこには“桑田佳祐命名「嘉門達夫」”とデカデカと書いた。そして200人というたくさんの人達が集まってくれて、無事ワンマンライブをおこなうことが出来たのである。そんな幾度かのワンマンライブをやっている間に破門から2年が経ち、毎日放送「ヤングタウン」に再びレギュラーとして戻ることを許された。

 このライブ活動の中から生まれた曲に「ヤンキーの兄ちゃんのうた」がある。1分56秒しかない曲だった。ライブでの反響が大きく、さてどこかのレコード会社から声がかかるかと思いきや、曲が短すぎてレコードとして発売するような思い切った会社は現れなかった。達夫は「じゃあ、自主制作しよう!!」と思い立ち、調べると200枚のレコード盤を作るのに16万5000円かかるということだった。が、達夫の手元にそんな大金はなかった。いろいろな人にカンパしてもらうこととなり、1人1万円ずつ、17人の温かい気持ちが集まった。ギター1本でのライブ録音。ジャケットは桂べかこさん(現在の桂 南光さん)にイラストを描いてもらった。しかし、出来上がった自主制作のレコード200枚は販売しなかった。そう、有線放送プロモーターとしてアルバイトしていた達夫はそれを有線放送所に配ったのである。各有線放送所では“当てモンの兄ちゃん”のレコードやと応援してくれた。ライブで聴いた人がリクエストしてくれた。有線放送で聴いた人から「なんや、これ?」と問い合わせやリクエストが殺到した。翌週からチャート1位という放送所が出て来た。こうなったら世間は黙っちゃいないというワケで、1983年7月、遂にこの「ヤンキーの兄ちゃんのうた」でメジャーデビューとなったのである。その勢いは、この年の有線放送大賞新人賞も受賞するほどだった。

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 ソモソモ「ヤンキーの兄ちゃんのうた」を作るきっかけとなったのは、京都でのある日の出来事からだった。“南座”当時『除夜の鐘コンサート』というイベントがあり、10分くらい幕間で出演した。出番も終わったので、他の出演者とともに八坂神社にお参りに行こうと出掛けた。ヒザの下まであるダウンジャケットを着込んで歩いていると、後ろから「寝袋みたいやんけ。」と言われた。失礼なヤツやなと思い、「放っとけや!」と言おうと「ほっ…」と振り返ると、きっつい剃り込みを入れたヤンキーの兄ちゃんが8人くらいで歩いていた。「ほっ…ほーほけきょ。」と言って帰ったかどうかは定かでないが、これはヤンキーの唄を作らなければと、この時思い立ったそうである。これが予想以上のヒットとなり、しごとも増えた。そして、第2弾シングルとして発売されたのが「ゆけ!ゆけ!川口浩!!」。テレビのスペシャル番組として放送されていたシリーズで、俳優の川口浩さんが隊長となり、各地のジャングルや沼地、洞窟に果敢に探検に行くというものだった。レコードにしたいと思っていた達夫は、ある日新聞で「ノックは無用」という番組に川口浩さんが生放送のゲストでやって来ることを知った。ここで川口さんに直接会ってO.Kをもらおうと考えたのだ。何とか川口さんの楽屋に通してもらい話をすると、どんな歌詞ですか?と聞かれた。「川口浩はピラニアに咬まれる咬まれた腕はいったい誰の腕なのだろう…という歌詞なんですが。」と伝えると、「実際ボク、咬まれたんですよ。」と言われた。ので、レコード化の際に「咬まれた腕が突然画面に大アップになる」と歌詞を変えた。発売されてからは番組の人気もあって大ヒット。テレビにも引っ張りだこ。どこへ行っても探検隊の格好でと言われた。ある日、自分のスケジュール表を見ると「台湾」と書かれている。マネージャに何かと尋ねると、特番のロケだという。台湾に着くと、衣装に着替えて下さいというので見ると、またもや探検隊の衣装だった。着替えると案内人もいるので、山道を歩いて奥地まで行って下さいと言う。チョーさんというその案内人に連れられて10分ほど歩いて行くと、急に視野が広いところに出た。よく見ると草むらからマイクやカメラがのぞいている。『ははーん、これはどっきりカメラやな。』とすぐに気が付いた達夫だったが、朝早くからこのマイクやカメラを仕込んだんやろな、とテレビスタッフの苦労を思うと、どうしても口には出せなかった。俳優さんが扮した原住民が飛び出して来たことや、網などの仕掛けにも驚いて見せたのだが、表情が冷めていたのか見事その台湾ロケはお蔵入りとなり、ついぞ見ることはなかった。(つづく)

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