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短期集中不定期日記的コラム「はじめての禁煙!」

2006年2月1日

「離煙パイプ」を使い出して20日が過ぎた。かつて一本あたり0.8mg摂取していたニコチンが、今日の段階で0.312mgに減少した。毎日0.3%ずつ摂取量が減っているので、違和感はまったくない。このシステムに乗っかってから、今まで以上にタバコと向き合うようになった。現段階では、まだ「禁煙」という事ではなく、禁煙に向かっての助走段階。あと20日で完全にタバコとサヨナラという事になる。
 それにしても、一体いつからタバコはカッコワルイ存在になってしまったのだろう。近頃は病院や学校は当然の事ながら、ビルそのものがすべて禁煙という風潮も広がって、寒空のオフィス街で野外に設置された灰皿に群がる喫煙者の姿をよく見かけるが、とても気の毒で精彩なく感じてしまう。レストランでも禁煙のところが増えており、反対に昭和のころから同じスタイルで営業を続けている歴史ある居酒屋などに行くと、カウンターに当然のように灰皿が常備されており、それはそれでむしろ懐かしさと愛おしさを憶えたりする。そう、タバコはとても懐かしい存在に変貌しつつあるのだ。
 僕が生まれ育った大阪府茨木市の線路沿いには、かつて専売公社の倉庫があった。車窓から目に入る看板のコピーは「今日も元気だ!タバコがうまい!」だった。小学3年生の時の学芸会で「裸の王様」の王様役をやった時、どんなシーンだったかは忘れたが、アドリブでタバコを取り出すフリをして、吸い込んで、吐いて「今日も元気だ!タバコがうまい!」と言ったら相当ウケた記憶がある。こういうコピーが何の違和感もなくまかり通っていた時代に僕は育った。駅のホームはもとより、各駅停車の車内でも大人達は平気でタバコを吸っていたし、吸い殻は足元で揉み消していた。飛行機でも平気で吸っていたという歴史が割と最近まである。トイレの大の個室にも灰皿は常備されていた。ウンコをする時はタバコを吸う、という習慣が根付いていたのだ。今でも少し古いホテルに泊まると、金属製の壁から取り外し出来る灰皿が備えてあるところがたまにあり、それが常識だった時代に対して懐かしさを憶える。ホテルではいまだに「ベッドでの喫煙はご遠慮下さい」とベッドサイドに注意書きが置いてあるところも多い。それだけベッドでタバコを吸う人が多かったという証しだ。「ベッドで煙草を吸わないで」という唄もあったし「うそ」「煙草のけむり」などのタバコが登場する唄が高度成長期にはやたら多く、僕らはそれらを聞いて育った。たかだか10年くらい前の、例えば「伊丹十三監督」の「大病人」などを見ても、医者である津川雅彦さんが診察室で平然と患者を前にタバコを吸っていたりする(伊丹監督は小道具としてタバコの使い方が上手かった)。皇居の園遊会や、国から勲章をもらった時にも、菊の御紋のタバコを土産にもらえたという事実もあるし、企業の応接室のテーブルの上には上等なガラスもしくは大理石の「3点セット」卓上ライター、タバコケース、灰皿が並んでいた(コイツが『生活遺跡』として今だ残っているのに遭遇するのも懐かしい。多くの場合、ケースの中にタバコは入っておらず、居心地悪そうに備品として捨てられるわけでもなく、そこに居続けているのだが)。タバコは接待に使われていたのだ。遠方からの来客に対して「まあまあ一本!」「あ、こりゃどーも、それじゃあお言葉に甘えて!」などというふうに。「タバコは都内で買いましょう!」というコピーもあったな。タバコの煙で輪っかを作る遊びもよくしたし、ウイスキーの空ボトルに煙を注入して、火のついたマッチ棒を放り込むと「ヒュン!」という音と共に青い炎が落下して行くのもミステリアスなカンジがした。高校3年の文化祭で8ミリ短編集を作った時も、高校生にとってタブーであるタバコが大いに活躍した。担任の森山先生がトイレに入って来ると、個室の上から煙が漏れている。「コラー!開けろー!」という事になってドアを開けると、生徒の黒木が七輪でサンマを焼いている、というモノだった。そしてデビュー以来、僕自身の歌詞作りや原稿書きが一段落した時にタバコに火をつける行為も、明らかに気分が変わったような気になったし、発想の転換になっていたように思う。とても仲が良く僕にとって「愛いやつ」だった。
 ツラツラと、タバコとの思い出を書き綴ったが、今はもう、タバコはいいか、という心境になっている。前項でも書いたが、むしろ禁煙した先に見える風景の方に興味がある。しかし、あと20日「なごりタバコ」との逢瀬を重ねる。「あー、タバコよ!どうしてお前はカッコワルイ存在になってしまったのか?」と考えながら確実に体内に摂取されるニコチンは日々減り続けている。



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